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羽生善治 著「大局観」(2011年、角川oneテーマ21)

この本は、「大局観」という漠然としているが魅力的なテーマについて考察が極められている…のでは全くない。
著者による、将棋にまつわる雑多なエッセイ集といった趣である。そこに収められたエッセイのいくつかは「大局観」をテーマにしている、といった程度だ。

しかし、そのエッセイの1つ1つが、かなり同感できるものであった。
たとえば、「コーチングのこつ」と題された部分で、

 将棋を教える時に肝心なことは、教わる側は何がわかっていないかを、教える側が素早く察知することだと考えている。
 ただ、基本通りに伝えたとしても、理解できることと出来ないことがあり、つまずきやすいポイントもある。
 人間というのは、自分でわかっていることに関しては手早くポイントだけを取り出して相手に教えて、たくさんの説明をつい省略してしまいがちだ。そのせいで、教わる側が理解しにくくなってしまうこともある。人に教える時には、自分が理解した時点まで戻ってていねいに相手に伝えないと、うまく理解してもらえないのではないか。
(89頁~90頁)

これは全く同感で、私も以前に記事「教えることの難しさ」で同様のことを書いています。

 また、そのプロセスのなかで、教わる側が積極的質問することがとても重要だと思う。質問をすれば、何を理解していないのか、何を誤解しているのかが、教える側にとてもよくわかるからだ。それに、同じことでも繰り返し説明されることによって、理解が深まるケースも多い。
(90頁)

これに対して、敢えて付け加えるなら、「指導者側の心構え」がとても重要だと思う。
すなわち、せっかく教わる側が積極的質問をしたのに、その質問内容が気に入らないために(たとえば初歩的すぎる、といった理由で)怒り出すような指導者は、ダメダメちゃんであると言わざるを得ません。
「なるほど、彼にとっては、この点がわかりにくいのか」
という具合に情報を得て、どうすれば効果的に教えることができるか、を冷静に考えられなくてはならない。
そういう指導者でなければ、教わる側も、よほど強靱な精神の持ち主でない限り、積極的に質問などできないし。

 また、すべてを教えるのではなく大部分を伝え、最後の部分は自分で考えて理解させるようにするのが、理想的な教え方ではないかと考えている。
 一方的に入ってきた知識は、一方的に出て行きやすい。しかし、自分で体得したものは出て行きにくい。
(90頁)

理想的な教え方について、私の考えも付け加えたい。それは
「知識を教える前に、まず、その知識の背景、必要性といったものを伝えることによって、いざ知識を教えるときに効果がパワーアップする」というものです。
例えば、将棋の〇〇戦法について弟子に教えるとする。その〇〇戦法が、それに先だって流行した△△戦法に対抗して編み出されたものであるとすれば、教える際には、
「〇〇戦法とは、ここをこうしてこうする戦法だよ」
といきなり伝えるのではなく、まず△△戦法を伝え、それに対抗するにはどうすればいいか、を一旦、弟子に考えさせる。そこでようやく〇〇戦法を教えることで、その戦法の有効性を深く理解させることができるわけです。

ただ、これは「言うは易し」であって、実際にやろうとすると手間もかかるし、なかなか難しいところです。

 小学生に大学の講義を聞かせてもチンプンカンプンなように、相手のレベルに合わせて、相手が必要としていることを教えなければ意味はない。それは、非常に微妙な調整を必要とする、ある種の職人芸だ。そんなところが、教える側の大きなやり甲斐ではないかと考えている。
(91頁)

本記事で、私は著者の考えにいろいろ付け加えていますが、恐らく、こんな程度のことは、著者にとっては織り込み済みであって、単に紙幅の都合上、省略しただけなのであろう、と、この文章は思わせます。
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