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西尾幹二 著「智恵の凋落」 (1989年、福武書店)

私が著者を知ったのは、確か1990年頃、「朝まで生テレビ」に出演していたのを見たのがきっかけだった。
当時、まだバブル景気で人手不足が叫ばれており、「外国人単純労働者を受け入れるか否か」をテーマとして論争が繰り広げられていた。
大半の意見は「受け入れるべし」であったが、著者は一人敢然と「受け入れ不可」を主張し続けた。
私はそれを見て「何と頑固一徹な人であるか…」と感じたのだが、それをきっかけにして何となく著者に惹かれ、著書を読み漁った覚えがあります。

その後、著者が「新しい歴史教科書をつくる会」の活動に傾注するようになって以降は、あまり読まなくなったが、つい最近、書棚にある「智恵の凋落」をふと再読したら、高校から大学時代にかけて、著書を読み漁っていた頃の気分が蘇ってきて、とても懐かしくなりました。
その気分とは、
「自分はどういうわけか、このバブルで浮かれた世間に乗って、うまく楽しむという能力が無い。かといって、オタク趣味に浸って楽んだり新興宗教に救いを求める気分にもなれない。イソップのコウモリのように、そのどれにも属さずに生きていくしかない。心細い道だが、西尾幹二をはじめ何人かの賢人の言葉を頼りにして自分を立たせよう」
というものです。

引用:

そこで知性の第一の条件として私が強調したいのは、自分は何が分かっていて、何が分かっていないか、その点がよく分かっているということではないかと思う。多く知ることが大切なのではない。何かを明確に知っていることだけが大切なのでもない。自分が知っていることは何で知らないことは何であるか、そのけじめをはっきり知っているということが肝要なのではないだろうか。自分に関してのこのような「明晰さ」こそが、知性の証ではなかろうか。

(汝自身を知れ)

自分は内向的な高校生だ。同世代の者たちが楽しんでいる遊びの多くを知らない。かといって「俺ってコレが凄いんだぜ!」という必殺技を持っているわけでもない。だからせめて知性を備えよう。いわゆる「インテリ」という、飾りとしての知性ではなく、著者の言う本当の知性、「明晰さ」を持ちたい…


引用:

…真の個性と単なる虚栄心の差はほんの僅かで、つい私たちは自分の心の心情の純粋さを信ずる余り、後者を前者ととり違える自己欺瞞に陥り易いからです。
 例えば、世渡りが下手で、大人の世界からうまく信用されない青年が、それは自分の孤独の純粋さのせいだと考えたがるなどは、そうした自己欺瞞の典型的な例と言えるでしょう。自分は清潔で、社会は不正と不道徳に満ちている、というような思い込みが一般に青年の心を占領し易いのは、人間は誰でも自分の弱点を見たがらないからです。しかしそういう青年に限って、うまく世間と折り合いがついて、たまたま出世コースにでも乗ってしまったら最後、じつに厭らしい俗物になって威張り散らす、というようなことになりかねません。私はそういう例をたくさん見てきました。

(大いなる虚栄心)

将来、こういう厭らしい俗物にだけはなるまい…
…現時点で、私はそこそこ世間と折り合いをつけていますが(出世コースとは無縁だが)、取りあえずこのような厭らしい俗物には、なっていないつもりです(それを評価するのは自分ではなく他人だが)。


引用:

 ですがまた、心の底では何処かに、たとえ少数でも、現代の青年の中に、他に掛け替えのない自分自身の価値観に固執して、最大多数の好みに参画するだけはかたくなに遠慮するという真の虚栄心の持ち主が、必ずいるに違いないと信じ、その少数者に期待したい気持ちを抱き続けている昨今でもあります。

(大いなる虚栄心)

…今現在、私は壮年?中年?であって、とうの昔に青年では無くなってしまいました。
自分自身が、現代の青年の中に、真の虚栄心の持ち主が、必ずいるに違いないと信じ、その少数者に期待したい気持ちを抱き続けている昨今でもあります。
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