続・患者さんからの手紙について
このブログは、「骨髄移植の患者さんからの手紙」といった検索キーワードによって発見され、参照されることが結構あるようだ。
私は9月1日に、「患者さんからの手紙について」という記事を書いた。その時点では、私自身は患者さんからの手紙をもらっておらず、恐らく、今後ももらえないだろう、それで構わない、と考えていた。
そして、その記事は、手紙を貰えずにがっかりしているドナーや、移植後も体調がなかなか回復せず、手紙を書けずに申し訳なさを感じている患者さんに向けて書いたつもりだった。手紙のやりとりは、あればラッキー、無くて当然なのです、と。
しかし、その約一ヶ月後、私はラッキーなことに手紙を頂いてしまった(「患者さんからの手紙が届いた」)。
もちろん嬉しいが、しかし、手放しで喜ぶ、という気分にはなれない。
なぜなら、骨髄移植は、多くの場合、患者さんにとってのゴールではなく、その後も長く続くであろう戦いの中の、1エピソードに過ぎないことを、私は何人もの患者さんのブログを通じて知っているからだ。現に、私の患者さんの手紙にも「食欲不振等がある」と綴られていた。
「移植によって命がつながったんだから、食欲不振なんて小さな問題だよね」
などとは私は言えない。
そのような、他者が背負っている荷物を勝手に軽く見積もる態度は、醜いことである。
骨髄移植が必要となる病気、白血病や悪性リンパ腫などの血液疾患は、何万人~何十万人に1人の割合で発症する。原因はよく分かっていない。患者さんは、その僅かな確率に該当して苦しみを引き受けた。というより、否応なしに引き受けさせられた。
その苦しみに耐えた、耐えている、というだけで「すでに十分過ぎるほど務めを果たした、果たしている」と私は思っている。
私の患者さんは、手紙の中で「今後はこの命で人様の役に立ちたい」と語っていた。現在でも食欲不振という辛さに耐えていながら、それに加えて、他人の役に立つことが実現したら、もう眩しすぎて、私は患者さんをまっすぐに見ることができなくなってしまいますよ。
私は9月1日に、「患者さんからの手紙について」という記事を書いた。その時点では、私自身は患者さんからの手紙をもらっておらず、恐らく、今後ももらえないだろう、それで構わない、と考えていた。
そして、その記事は、手紙を貰えずにがっかりしているドナーや、移植後も体調がなかなか回復せず、手紙を書けずに申し訳なさを感じている患者さんに向けて書いたつもりだった。手紙のやりとりは、あればラッキー、無くて当然なのです、と。
しかし、その約一ヶ月後、私はラッキーなことに手紙を頂いてしまった(「患者さんからの手紙が届いた」)。
もちろん嬉しいが、しかし、手放しで喜ぶ、という気分にはなれない。
なぜなら、骨髄移植は、多くの場合、患者さんにとってのゴールではなく、その後も長く続くであろう戦いの中の、1エピソードに過ぎないことを、私は何人もの患者さんのブログを通じて知っているからだ。現に、私の患者さんの手紙にも「食欲不振等がある」と綴られていた。
「移植によって命がつながったんだから、食欲不振なんて小さな問題だよね」
などとは私は言えない。
そのような、他者が背負っている荷物を勝手に軽く見積もる態度は、醜いことである。
骨髄移植が必要となる病気、白血病や悪性リンパ腫などの血液疾患は、何万人~何十万人に1人の割合で発症する。原因はよく分かっていない。患者さんは、その僅かな確率に該当して苦しみを引き受けた。というより、否応なしに引き受けさせられた。
その苦しみに耐えた、耐えている、というだけで「すでに十分過ぎるほど務めを果たした、果たしている」と私は思っている。
私の患者さんは、手紙の中で「今後はこの命で人様の役に立ちたい」と語っていた。現在でも食欲不振という辛さに耐えていながら、それに加えて、他人の役に立つことが実現したら、もう眩しすぎて、私は患者さんをまっすぐに見ることができなくなってしまいますよ。
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