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障害について

yahoo知恵袋での質問
「相対的」の解釈の仕方を教えて下さい。

「障害とは、その人個人に属する客観的な事実ではなく、その人を取り巻く生活や社会との関係のなかで相対的に考えるべき…」


それに対する私の回答
たとえば、盲人は障害者(視覚障害者)と言われますね。これは何故かというと、この世界が、多数派である、目が見える者(晴眼者)を基準に作られているので、少数派である盲人にとって障害となることが多いからなのです。

ここで、「盲人が多数派である世界」を想像してください。そこでは、視覚に頼って生活する人(晴眼者)が少数派です。この世界では、「照明」というものがありません。夜は真っ暗闇です。なぜなら、盲人にとって、照明なんてエネルギーの無駄でしかないですからね。
多数派の盲人は、昼も夜も関係なく、杖をつきながら平気で歩き回っていますが、少数派の晴眼者は、夜は周りの景色が見えず、おっかなびっくり歩かなければなりません。

つまり、晴眼者は「視覚に頼って行動するしかない障害者」となるわけです。

いったい、「障害」とは何なのか?
こちらの世界では「盲人」が障害者。あちらの世界では「晴眼者」が障害者。
その人を取り巻く社会が、どんな作りになっているかによって、何が障害であるか(目が見えないことが障害なのか、逆に視覚に頼りすぎるのが障害なのか)が変わってくるのです。

これが、
「障害とは、その人個人に属する客観的な事実ではなく、その人を取り巻く生活や社会との関係のなかで相対的に考えるべき…」
の意味です。
(ここまで)

この話には元ネタがある。以前、全盲の方による講演を聞く機会があり、そこで上記のような話があった。それが印象に残っており、ちょうどいいタイミングだったのでここに披露した、というわけだ(若干アレンジはしてある)。

ただ、自分で書いていてナンだが、この話は「障害」について、確かに認識を新たにしてくれるが、一方で、もっと深刻な障害者の場合はどうなのだろう・・・という疑問も同時に湧いてくる。
たとえば、視覚障害と聴覚障害、または視覚障害と発達障害といったように、重複した障害を持っている人の場合、「彼らが多数派である世界」を想像するのは難しい。無理矢理に想像しても、その世界は本当にちゃんと回るのか?という疑問も出てくる。

障害者に対して、キリスト教徒は「神から与えられた試練」と説く、というのを何かで読んだことがある。
しかし、またまた疑問が出てくる。その人に対して、そんなに重い試練を課すのはなぜか?何故、他の人では無く、その人なのか?

また、仏教では「前世の悪行の報い」という言い方がされる。
(ただ、これは仏教の伝播の過程で混入した思想であって、開祖であるゴータマ・ブッダはこんなことを言っていない)
これにも疑問が出てくる。仮に、現世の障害が前世の報いであるなら、重い障害によって若くして亡くなった人はどうなるのか?障害に耐えて生きることが前世のカルマをそそぐことであるなら、その時間すら与えられず亡くなった人は、次の人生もひきつづき重度の障害者、ということになるのか?

先に書いた、全盲の方の講演では、「くじ引き」の喩えで話されていた。生まれてくるに当たって「男」というくじを引くか「女」というくじを引くかは、ほぼ1対1の確率で決まる。「日本人」というくじを引くかは、1対何十かの確率で決まる。「障害者」というくじを引くかは、1対何千、といった確率で決まる・・・そんな内容だったように覚えている。

「障害者」のくじを引いた人が、自身の障害をどのように考えるかは人それぞれだろう。「神の試練」や「前世の報い」を取り入れる人もいるかもしれない。どう考えるべきか、私にはわからないが、確かなのは、その人が重い荷物を背負っていることだ。そのことに敬意をもって接し、可能な範囲で手助けする、私にできるのはその程度だ。
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