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2013/7/27(土)サッポロビールツアー

パソコン要約筆記研究会「らびっと」主催のイベントのお知らせです。
7/27(土)、サッポロビール千葉工場(船橋市)のビールツアー&ジンギスカンを食べる。
道中、パソコン要約筆記による字幕がつきます。
詳細↓
 サイト『千葉県パソコン要約筆記研究会「らびっと」』
 記事『7月ビール工場見学参加者募集中!

パソコン要約筆記に関心がある人、ビールが好きな人、肉が好きな人、是非アクセスを!
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参議院選挙に向けて

ブログ「村野瀬玲奈の秘書課広報室」
記事「選挙運動期間中、有権者が意思表示のためにできることを一つ提案。

ここでは、自分が「支持できない」候補者に対するアクションが、2つ提案されている。
  1. 街角でその候補者のビラを受け取ったら、その場でビリビリと引き裂く
  2. その候補者の街頭演説にて握手を求める。そして笑顔で握手しながら、政策上の問題点を述べ、不支持である旨を伝える(笑顔で、というのがポイント)

私は特に2.がお勧めです。1.の方は、当の候補者からすると
「ちっ、対立候補の支持者による嫌がらせか…」
と受け取られてしまい、こちらの真意が伝わらないような気がする。

選挙運動といえば、以前から私が夢想していることがあります。それは、
「選挙カーによる騒音を候補者ごとに数値化して公表する」
というものです。
さらに「内容の無意味さ」も数値化できればなお良い。
すなわち、

「〇山△夫、〇山△夫をよろしくお願いします!ご声援ありがとうございます!」
という例のアレを、
  • 候補者:〇山△夫
  • 音量:90デシベル
  • 無意味指数:89ポイント
  • 計測地点および日時:どこ市そこ町1丁目付近、某月某日 某時某分頃

という具合に数値化するわけです。
無意味指数の算出方法は、
「単位時間あたりに候補者名を連呼した回数」
をベースにするのが妥当だと思う。

ただ、実際にこれをやろうとすると難しい。すべての候補者について、同一条件で計測しなければならないからです。
A候補者は選挙カーと10mまで接近した地点で計測し、B候補者は80m離れた地点で計測したのでは公平にならない。しかし選挙カーはいつ、どこにやってくるか分からない。
だから「こんなこといいな、できたらいいな…」の夢想レベルに止まっているのです。

今度の参議院選挙では、村野瀬玲奈さんが提案している、
  1. その候補者の街頭演説にて握手を求める。そして笑顔で握手しながら、政策上の問題点を述べ、不支持である旨を伝える(笑顔で、というのがポイント)

これをやってみようか、と考えています。

頑丈さん

私はかなり頑丈なほうで、社会人になって17年余、具合が悪くて会社を休んで医者にかかったのが2回のみである(1回目は会社の堅い床に寝泊まりして尾テイ骨を痛めて形成外科に行き、2回目は街の中華料理屋で食べたものが当たりウィルス性腸炎になった)。入院したことも当然なく、骨髄ドナーとして入院初体験のときはかなりウキウキした。
しかし、そんな私をはるかに凌駕する頑丈な人物がいた。

ブログ「24時間残念営業」
記事『「疑わない」という怠惰について

 昔、知人に農家の息子の人がいてさ、俺もたいがい病気とかしないし、入院の経験すらないんだけど、その人は俺に輪かけて頑丈だったのね。

「なんかまちがって農薬かぶっちまって頭痛がする」

 とかで済ますし、鳥目の俺が右見ても左見てもなにも見えない闇夜で「お、猫がいる」っていって猫つかまえてきて「MK2さん猫好きだろ」って目の前に突き出すような人。いや、その猫、俺には見えないんだけど。しかも黒猫。

 で、その人が言ってたわけ。

「俺は頑丈だから、病弱な人間の気持ちとかはよくわかんねえよ。だから、そいつがつらいっていうんだったらつらいんだろってそのまま鵜呑みにすることにしてる」

(引用ここまで)

ここで紹介されている人物を仮に「頑丈さん」と呼ぶ。
読者はもしかすると、
「ああ、頑丈さんは他人を疑わない純真な人なんだな」
と感じるかもしれないが、その見立てはきっと間違っている。

頑丈さんは他人を疑わないのではない。相手によっては、
「こいつ、単に甘えてるだけじゃねぇか?」
という気持ちが湧いてくる時だって、恐らくはあるのだ。しかし、その攻撃的な気持ちを相手にぶつけて刹那的な快感を得るよりも、相手の言葉をそのまま受け入れた方が、よりベターな関係を得られる可能性が高い、という冷静な判断に基づいて、
「鵜呑みにすることにしてる」
という方針をみずから決定したのだ。時には、本当に「甘えてるだけ」というべき相手もいるかもしれないが、そんなことは織り込み済みで、自ら決定した方針に従って「鵜呑み」しているのだ。きっと。たぶん。

羽生善治 著「大局観」(2011年、角川oneテーマ21)

この本は、「大局観」という漠然としているが魅力的なテーマについて考察が極められている…のでは全くない。
著者による、将棋にまつわる雑多なエッセイ集といった趣である。そこに収められたエッセイのいくつかは「大局観」をテーマにしている、といった程度だ。

しかし、そのエッセイの1つ1つが、かなり同感できるものであった。
たとえば、「コーチングのこつ」と題された部分で、

 将棋を教える時に肝心なことは、教わる側は何がわかっていないかを、教える側が素早く察知することだと考えている。
 ただ、基本通りに伝えたとしても、理解できることと出来ないことがあり、つまずきやすいポイントもある。
 人間というのは、自分でわかっていることに関しては手早くポイントだけを取り出して相手に教えて、たくさんの説明をつい省略してしまいがちだ。そのせいで、教わる側が理解しにくくなってしまうこともある。人に教える時には、自分が理解した時点まで戻ってていねいに相手に伝えないと、うまく理解してもらえないのではないか。
(89頁~90頁)

これは全く同感で、私も以前に記事「教えることの難しさ」で同様のことを書いています。

 また、そのプロセスのなかで、教わる側が積極的質問することがとても重要だと思う。質問をすれば、何を理解していないのか、何を誤解しているのかが、教える側にとてもよくわかるからだ。それに、同じことでも繰り返し説明されることによって、理解が深まるケースも多い。
(90頁)

これに対して、敢えて付け加えるなら、「指導者側の心構え」がとても重要だと思う。
すなわち、せっかく教わる側が積極的質問をしたのに、その質問内容が気に入らないために(たとえば初歩的すぎる、といった理由で)怒り出すような指導者は、ダメダメちゃんであると言わざるを得ません。
「なるほど、彼にとっては、この点がわかりにくいのか」
という具合に情報を得て、どうすれば効果的に教えることができるか、を冷静に考えられなくてはならない。
そういう指導者でなければ、教わる側も、よほど強靱な精神の持ち主でない限り、積極的に質問などできないし。

 また、すべてを教えるのではなく大部分を伝え、最後の部分は自分で考えて理解させるようにするのが、理想的な教え方ではないかと考えている。
 一方的に入ってきた知識は、一方的に出て行きやすい。しかし、自分で体得したものは出て行きにくい。
(90頁)

理想的な教え方について、私の考えも付け加えたい。それは
「知識を教える前に、まず、その知識の背景、必要性といったものを伝えることによって、いざ知識を教えるときに効果がパワーアップする」というものです。
例えば、将棋の〇〇戦法について弟子に教えるとする。その〇〇戦法が、それに先だって流行した△△戦法に対抗して編み出されたものであるとすれば、教える際には、
「〇〇戦法とは、ここをこうしてこうする戦法だよ」
といきなり伝えるのではなく、まず△△戦法を伝え、それに対抗するにはどうすればいいか、を一旦、弟子に考えさせる。そこでようやく〇〇戦法を教えることで、その戦法の有効性を深く理解させることができるわけです。

ただ、これは「言うは易し」であって、実際にやろうとすると手間もかかるし、なかなか難しいところです。

 小学生に大学の講義を聞かせてもチンプンカンプンなように、相手のレベルに合わせて、相手が必要としていることを教えなければ意味はない。それは、非常に微妙な調整を必要とする、ある種の職人芸だ。そんなところが、教える側の大きなやり甲斐ではないかと考えている。
(91頁)

本記事で、私は著者の考えにいろいろ付け加えていますが、恐らく、こんな程度のことは、著者にとっては織り込み済みであって、単に紙幅の都合上、省略しただけなのであろう、と、この文章は思わせます。

乙武洋匡 著「五体不満足」(1998年、講談社)

小浜逸郎著『「弱者」とはだれか』(PHP新書、1999年)に、『五体不満足』の引用がある。

 その頃、国語の時間に「特徴」と「特長」の違いについて学んだ。「特徴」は、「他と比べて、とくに目立つ点」という意味を持つのに対して、「特長」は、「そのものを特徴づける長所」という意味を持っていた。つまり「特徴」は単なる違いだけを表すが、「特長」は他とは違う、「優れた部分」を表すのだ。
 その日以来、ボクは自己紹介などで「特徴・手足がないこと」と書いていたのを、「特長」と書くようになったのを覚えている。

(『「弱者」とはだれか』77頁より、『五体不満足』の孫引き)
そして、それを評して曰く

 手足がないことは、この人間社会では、あくまで「欠損」という「特徴」であってけっして「特長」ではない。「欠損」の自己認識を意志や気力や知力で補填することによって、はじめてそれが「特長」でもありうる可能性が生まれるのだ。
(略)
 ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に、「せむしから瘤を取ったらせむしではなくなる」という有名な台詞がある。「せむし」という自分の現実を逃れられない実存的な条件として引き受けて、それを精一杯生きようとすること(『五体不満足』の著者自身には、その力がありあまるほどそなわっていることがわかるが)と、「せむし」であることを「長所」であると言いくるめることとは、似ているようでまったく違っている。実際、そんな言いくるめが一般的な力を持つほど、この世は甘くない。

(78~79頁)

これを読んで私は納得し、それ以来、私はなんとなく乙武さんを「いまいちな人」に分類して、特に関心を持たずに来た。
一方、伏見憲明著『さびしさの授業』(理論社、2004年)にも、『五体不満足』を引用した部分がある。

「障害は個性である」という言葉をよく耳にする。ボクには、なんだか、くすぐったい。健常者には、ただの強がりに聞こえる場合もあるようだ。子どもの頃は「特長」と捉えていたボクの障害だが、今では、単なる身体的特徴にすぎないと考えるようになった。

(『さびしさの授業』115~116頁より、『五体不満足』の孫引き)
そして、それを評して曰く

 乙武さんは、「個性」という表現を、いささか持ち上げ過ぎていると感じているようです。障害は一つの人間のありようだとはいえるが、「個性」というほどの特別の価値があるわけではない、と。

(116頁)

???
乙武さんにとって、障害は「特長」ではなかったのか?いつから考えが変わったのか?
まず考えられるのは、「五体不満足」の初版では、著者が障害を「特長」としてとらえており、小浜逸郎さんはそれを元に批判した。そして改訂版では、著者は障害を、単なる「特徴」としてとらえるように変化しており、伏見憲明さんはそれを元に評価した、というストーリーだ。

そこで、私は『五体不満足』を購入して確かめてみた。初版第19刷。

その日以来、ボクは自己紹介などで「特徴・手足がないこと」と書いていたのを、「特長」と書くようになったのを覚えている。
これは81頁にあった。そして、
子どもの頃は「特長」と捉えていたボクの障害だが、今では、単なる身体的特徴にすぎないと考えるようになった。
これもあったのだ。257頁に。

障害が「特長」だ、というのは、著者が小学生だった頃のエピソードであり、その後、五体不満足が書かれた1998年、著者が大学生になった頃には、障害は単なる身体的特徴にすぎない、と考えが変わったのが真相のようだ。

そうなると、小浜逸郎さんの批評は、著者の考えの変化を追わずに、小学生時代のエピソードだけを取りあげて批判していたことになります(257頁のくだりはひょっとすると読み落としたのかもしれないが)。
私は小浜逸郎さんの愛読者で、大昔にファンサイトを作っていた程なのですが(今は消滅)、この点に関してはちょっと残念でした。

一方、乙武さんは、私にとって「いまいちな人」だったのが、何となく「ナイスな人」に変わりました。
先日の「乙武洋匡イタリアンレストラン入店拒否騒動」がきっかけで、ご本人のツイッターや、公式サイトに書かれた反省文(?)を読んで、けっこう誠実な人物であると感じたからです。
まぁひょっとしたら、「誠実な人物であると感じさせる技能に長けた人物」なのかもしれませんが、実際に確かめようがないし、本当に誠実な人物であると信じても別に損はないな、と思いました。

投資と投機と勝負事と博打

投資は現代人のたしなみ、という人がたまにいる。
投資というと、「リスクとリターン」という2本の軸で考える人が多いようだ。例えば国債はローリスク・ローリターン、株はハイリスク・ハイリターン、といったように。
しかし私は、「ゼロサムか否か」という1本の軸で考える。

株式市場で株を買うとしよう。
すでに上場して久しい企業の株で、株価があがる見込みがあれば、それを買う。そして読みが当たり、その企業の株価が上がれば、適当なタイミングで売ることによって儲けることができる。

一方、あるベンチャー企業が初めて上場したとする。その企業の将来性が期待できるなら、株を買う。そして読みが当たり、その企業の業績が上がれば、配当によって儲けることができる。

前者は、誰かが損をしている。すなわち、もし私が、安く買った株を高く売ることで儲けるならば、どこかの誰かが逆に、高く買った株を安く売って、損をしているわけだ。

一方、後者は誰も損をしていない。株主は配当を得られ、企業は資金を得られ、消費者はその企業が提供する商品やサービスを得られる。みんなハッピーだ。

私が「ゼロサムか否か」というのは、この2つを指している。前者がゼロサム(誰かが得をすれば、必ず誰かが損をする)である。「株を買う」という、同じ行為であっても、売却益を目的とするか、配当を目的とするかで見方が変わってくるわけだ。

私は、前者の投資(というより、それは“投機”というべきだと思う)には一切関心がない。子供の頃から、
  • 将棋は負ける
  • 人生ゲームはビリになる
  • モノポリーは破産する

こんな感じで、自分は勝負事、博打には向いていないんだ、というのがよく分かっているからだ。

一方、後者の投資ならば関心がなくはないが、それを実現するための、企業の将来性を見抜く目があるわけでもなし、だからといってそれを鍛える情熱があるわけでもなし、結局、現代人のたしなみは、私には無縁なのだった。
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