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村田沙耶香 著「コンビニ人間」(2016年、文藝春秋)

主人公の恵子は、子供の頃から、世間とは少しずれている子供だった。
そのズレはどうしても解消できず、黙ってやりすごすことしか出来なかった。
しかし、大学生の頃、コンビニでのアルバイトを始めた。
コンビニの仕事は、全てがきっちりとマニュアルで定められている。
それを身に着けることで、初めて、恵子は世界の一員になれた。
コンビニの店内限定で。

その後、コンビニ人間としての自我を脅かす様々な出来事が発生する…
という物語だが、私は、恵子の子供の頃のエピソードを読んで、こういう子に対する、世間に馴致しようとするばかりではない、もっとましな接し方は無いものだろうか、と考えた。

■エピソード1

(引用)
幼稚園のころ、公園で小鳥が死んでいたことがある。どこかで飼われていたと思われる、青い綺麗な小鳥だった。ぐにゃりと首を曲げて目を閉じている小鳥を囲んで、他の子供たちは泣いていた。「どうしようか……?」一人の女の子が言うのと同時に、私は素早く小鳥を掌の上に乗せて、ベンチで雑談している母の所へ持って行った。
「どうしたの、恵子?ああ、小鳥さん……! どこから飛んできたんだろう……かわいそうだね。お墓作ってあげようか」
 私の頭を撫でて優しく言った母に、私は、「これ、食べよう」と言った。
「え?」
「お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」
(中略)
私は、父と母とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。父は焼き鳥が好きだし、私と妹は唐揚げが大好きだ。公園にはいっぱいいるからたくさんとってかえればいいのに、何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。
(ここまで)

ここで、大人の側はどう振る舞うのがいいか。

「せっかくの獲物なのに、どうして食べないの?」
という疑問に対しては、衛生的観点からの回答が有効だと思う。
たとえば、
「お父さんが大好きな焼き鳥は、ちゃんと病気じゃない鳥を使って焼いているんだよ。でも、恵子が拾ってきた、その鳥は、何か病気だったかもしれないよね?もし、病気で死んだ鳥を食べて、お父さんも病気になっちゃったら、嫌だよね」

という具合だ。一方、

「どうして埋めなければいけないの?意味がわからない」
という疑問に答えるのは難しい。
世界には様々な価値観の人々がいて、なかには、恵子には理解できない考えや、習慣を持った人もいるが、それでも、その価値観は尊重しなければならない…という観点しか思い浮かばないが、これを具体的に、幼稚園児に対して、どうやって説明するか?

■エピソード2

(引用)
小学校に入ったばかりのとき、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったことがあった。
「誰か先生呼んできて!」
「誰か止めて!」
悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った。
 周囲は絶叫に包まれ、男子は頭を押さえてその場にすっ転んだ。頭を押さえたまま動きが止まったのを見て、もう一人の男子の活動も止めようと思い、そちらにもスコップを振り上げると、
「恵子ちゃん、やめて!やめて!」
と女の子たちが泣きながら叫んだ。
(ここまで)

ここで、大人の側はどう振る舞うのがいいか。

まずは、恵子が喧嘩を止めようとしたことを褒める。
次に、非力な女の子が、力の強い男の子を止めるには、素手では難しく、何か工夫が必要だ…とっさにそう考えた、その機転を褒める。
最後に、その機転はよかったが、実現手段に問題があったことを指摘する。
すなわち、スコップで頭を殴ると、下手をすると男の子が死んでしまうかもしれないという点だ。
たとえば、

「自分で喧嘩を止めようとしたんだ、偉いね。それに恵子は女の子だから、男の子の喧嘩を止めるのは難しいよね。だからスコップで止めようと考えたんだ。よく思いついたね。
でもね、喧嘩が止まったとしても、男の子2人が死んでしまったら、どうする?
恵子は人殺しになっちゃうよ。
スコップで頭を殴るというのは、もしかしたら、相手を殺してしまうかもしれないことなんだよ」

この場合の現実的な対応策は、「先生を呼んでくる」だな。
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2型愚か

Yahoo知恵袋での質問。
結局、人生がうまくいかないのは自分の能力が低いせいですか?
(ここまで)

この質問には私も回答したが、それはベストアンサーには選ばれなかった。
質問者が選んだベストアンサーは、以下の通り。
そうです。
その通りです。
(ここまで)

さらに、質問者は以下のコメントをつけていた。
うまくいきたいものですね
(ここまで)

ところで私の、ベストアンサーに選ばれなかった回答は以下の通り。
「俺がうまく行かないのは、全て○×が悪いからだ」
などと、常に責任転嫁している人は愚かです。これを仮に「1型愚か」と名付けます。

「俺がうまく行かないのは、全て自分が悪いからだ」
などと、常に自分を責めている人も愚かです。これを仮に「2型愚か」と名付けます。

現在は、この「2型愚か」の考えが広まりつつあるので、我々は、何となく
「結局、人生がうまくいかないのは自分の能力が低いせい」
という考えに傾いてしまいがちですが、その考えが愚かであることには変わりありません。

では一体、愚かでない人とは、どんな人なのか、というと、
「自分の努力の及ぶ範囲と、及ばない範囲とを、冷静に見極めて、前者に注力する人」
です。難しいですね。
(ここまで)

質問者およびベストアンサーに選ばれた回答者が「2型愚か」であることは明白だ。
この種の人は、
「自分が何か力を出すことで、世の中が少しでも良くなる…そんなことは、絶対にありえない」
という絶望を抱いている。そして、
「個人が何をしても世の中は変わらない。だから、その仕組みに乗ってうまい汁を吸うのが勝ち組、それができないのが負け組だ」
という思考法で、自らを負け組に位置づける。
そして、
「自分は負け組だが、そういう世の中の仕組みについては、よくわかってるぞ!」
というのが、彼等のいじましいプライドなのだろう。

倫理的

Yahoo知恵袋での質問。
倫理的な社会参加はボランティア以外何がありますか?幾つか例をあげてくださいお願いします。
(ここまで)

それに対する私の回答
「これに参加しさえすれば、倫理的だ」
というものはありません(ボランティアにしても、倫理云々とは何の関係もありません)。

「年齢、性別、国籍、職業の有無、障害の有無…等々を問わず、誰にでも同じように敬意を持って接すること」
倫理的な振る舞いとは、こういうことです。
(ここまで)

こう聞くと、
「では、自分が犯罪の被害に遭ったとして、その犯人に対しても、同じように敬意を持って接するのが倫理的なのか?」
という疑問が生じるかもしれないが、答えは
「その通り」
である。

「そんな無茶な…」
という感想が生じると思われるが、答えは
「必ずしも、倫理的な振る舞いが素晴らしいとは限らない」
である。

「それじゃ、“倫理的”という物差しは、一体何のためにあるのか?」
という疑問が生じると思われるが、答えは
「世界がどんなに酷い方向に向かっていっても、自分だけは押し流されないためのスパイクとして」
である。
スパイクである以上、簡単に動いてしまっては意味をなさない。すなわち、
「ここは流れに乗ったほうが得だな…」
という損得判断が生じたときにも、頑として動かない、ということである。

ちなみに私は倫理的な振る舞いが自己採点で65点くらいしかできていない。

敬意

だいぶ前、画家の平山郁夫さんの存命中、インタビュー映像をテレビで見たことがある。
確か、インタビュアーはNHKのアナウンサーで、かなりのベテランだったと思う。
次のようなやりとりがあった。

インタビュアー「乱暴な質問ですが、“人間の本質”は、どこに現れますか?」
平山さん「それは眼です」

この結論自体は平凡だ。
「眼を見れば、その人がわかる」
というのはよく言われる。
私の印象に残っているのは、この一見ありきたりな結論ではなく、インタビュアーの「乱暴な質問ですが」という、控えめなことわりの言葉だ。

「人間の本質」と一言でいっても、平山さんのような画家にとって、それは本来なら、それだけをテーマにインタビュー時間を全て費やしても、足りないほどのものであるはずだ。
しかし、インタビュアーには自分の役割がある。
決められた時間内で、「人間の本質」というたった一つの話題に留まっているわけにはいかない。いろいろな話しを引き出して、視聴者を楽しませなければならない。

インタビュアーは、自分の役割を果たさなくてはならない、という責任感を持っていた。そして同時に、「人間の本質」というテーマが、平山さんにとって大事なものであるに違いない、軽く扱うことはできない、という想像力も持っていた。
その葛藤が、「乱暴な質問ですが」という言葉になって現れたのだと思う。

私は、それを聞いたとき、
「このインタビュアーは、他者に対して敬意をもって接することのできる人だ」
と感じた。

世にいるあまたの聞き手ならば、次のような展開になっただろう。
聞き手「“人間の本質”は、どこに現れますか?」
平山さん「それは眼です」
聞き手「なるほど。よく言われますね。ところで…(次の話題に移る)」

この場合、聞き手は、平山さんを
「生涯をかけて絵を追求する人」
ではなく、単なる
「インタビューの素材」
として扱っている。
それは自分の役割に忠実に振る舞っている、ということであり、何ら非難されるべき謂れはない。
しかし、残念だなぁと私は思う。

特攻は自爆テロではない

ブログ「ブロガーかさこの好きを仕事にするセルフブランディング術」
記事「日本の自爆テロリスト訓練基地跡・大津島を訪ねる~人間魚雷「回天」

著者はフリーライター。ブログは毎日更新され、私もよく読んでいます。
毎日更新のゆえに、あまり内容を吟味、推敲せずに「勢い」で書かれたような記事も多い。
ただ、恐らく著者は、多少の粗は承知で、とにかく毎日書くことを優先している。
それによって失うものよりも、得るものの方が遙かに大きい、という判断からだ。
記事内容には同意できるものも、できないものもあるが、この著者の一貫した姿勢についてはすごいと感じます。

しかし、リンク先の記事は、私には「多少の粗」で済ませることができない。
強く不愉快にさせられた。それについて書きたい。

記事を私なりに要約すると、次のようになる。
  1. 世界各地での自爆テロがしばしば報道されるが、かつて日本でも「特攻」という自爆テロを国家ぐるみで行っていた。
  2. かつての特攻も、今の自爆テロも、戦闘員に対して狂信的な洗脳を施すという恐ろしさが共通している。
  3. 一方、テロ組織に対する空爆作戦は、いわば無差別テロともいえる、愚かな行為である。
  4. 敷衍すれば、そもそも「戦争」という行為自体がテロと大差ない。
  5. 最近の日本は、この空爆作戦を肯定するなど、過去の戦争の愚を繰り返しつつある。
  6. その流れを変えるためにも、特攻について深く学ばなければならない。

3.以降については、私は違う考えを持っているが、それでも著者の考えは一つの意見として尊重できる。
(空爆作戦に関する私の考えは、過去記事「根本対応と応急対応」に書いてあります)

問題は1.と2.である。
特攻は、戦時国際法に則り、あくまでも敵艦船、敵戦闘員だけを標的にしていた。この点で、一般市民を標的にする自爆テロとは大きく異なる。ただ、まぁ戦争とテロを区別しない(要約4.)著者だから、この点はあまり重視しないのも仕方ない(本当は大きな相違だが)。

私が許し難く不快に感じるのは、ただ一点、特攻隊員への敬意の欠如だ。
「敬意」といっても、何も「特攻隊員に感謝せよ」とか「今の日本があるのは特攻隊員のお陰だ」といった話しではない(そんな価値観の押し付けは私だってご免だ)。

著者は
「日本人ならぜひ大津島の回天記念館と鹿児島の知覧特攻平和会館は行くべきだ」
という。私は回天記念館には行ったことがないが、知覧へは行ったことがある。
そこで特攻隊員の手紙も読んだ。読んで私が感じたのは、
「圧倒的に不条理な“死んでこい”という命令を受けて、それを受け入れざるを得なかった隊員が、最後の尊厳を遺そうとした姿」
である。
特攻は志願の体裁をとってはいるが、ほとんど拒否できず、実質的には命令だったのだ。
(この点については、確か家永三郎 著「戦争責任」(岩波書店 1985年)に記述があったと思うのですが、すぐに見つけ出すことができません)
拒否できたのは、海軍航空隊の撃墜王、岩本徹三少尉など、圧倒的な実績を持つごく一部の人だけで(※)、その他の「普通の兵士」は、受け入れるしかなかった。そして尊厳を遺した。

一方、著者が感じたのは、次のようなことだ。

>しかし今の自爆テロしかり
>日本の特攻しかり。
>必ずしも強制されたわけではなく
>それが国家や家族のためになると
>信じ込んで志願している
>その気色の悪い洗脳ぶりが恐ろしい。
>まるでカルト教団だ。

著者には、おそらく個々の特攻隊員を侮蔑する意図は無い。
個々の隊員ではなく、隊員に対してそのような行動を強いた、当時の軍および国を批判していることは、全体を通して読めば分かる。
しかし、同時に特攻隊員への侮蔑になってしまっている。
「国家に洗脳され、馬鹿げた理念を信じ込んでいる、自我のないロボット」
として隊員を捉えているからだ。

私は特攻隊員に対して、「今の日本があるのは彼等のお陰だ」といった感謝の念を持たないし、「気色悪い洗脳集団だ」といった奇異の念も持たない。
私が持つのは、負債の念である。
“死んでこい”という馬鹿げた作戦を強要される、そういった圧倒的な不条理は、今はない。
しかし、社会のあちこちで、小さくない不条理が残っているし、新しく発生もしている。
それらに対して抗わなくてはならない。
難しいことだが、かつて特攻隊員が尊厳を遺した力の数分の一でもあれば、少しだけできると思う。

(※)
個人ではなく部隊単位で特攻を拒否した例として、美濃部正少佐が率いた「芙蓉部隊」がある。敗戦濃厚で物資が不足する中、工夫を凝らした合理的な訓練により部隊の練度を維持し、艦上爆撃機「彗星」を活用した夜襲攻撃を粘り強く敢行した。
(渡辺洋二 著 「彗星夜襲隊―特攻拒否の異色集団」 光人社NF文庫)
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